「北海道」という地名


語られる物語と感覚される風景との徹底的な相互依存を考えると、民族誌学に見られるような、口承物語を文字で書き出版して広める行為は、ある種の暴力にほかならず、物語を物質的に具体化し喚起している視覚的な地形や地誌的特徴から物語を引き裂いている。(...)何か決定的なものが、そうした物語に隠された秘密の論理を解く鍵が、欠けているのだ。そしてその鍵とは、生ける大地それ自体、地元の大地の表情に富んだ外形にほかならない。欠けているのはものいわぬ地形であり、感応的な丘の斜面や川床であり、それらが投げかける特定の場所にだけ関わる質問に物語が応えているのである。
(デイヴィッド・エイブラム、結城正美訳『感応の呪文: <人間以上の世界>における知覚と言語』水声社, 2017, p234)
礼文島 桃岩展望台からの眺め
この数ヶ月、北海道に残された自然林を探したり、郷土写真関係の調査をしたり、頼まれれば知り合いのためにネイチャーガイドをしたりして、暇さえあれば道内あちこち出歩いていました。 今月は利尻礼文とサロベツ湿原、音威子府に行ってきた。ようやく道内全体を見回って、少しは土地勘がついたかもと言えるぐらいにはなったかなあというところ。 音威子府は10年ぶりぐらいに立ち寄った。行く途中、「北海道命名の地」という看板があったので、見に行くことにした。看板と記念碑、記念樹があるだけだったのだが、さわさわと葉の揺れるアシと柳の木陰の中を歩くのは気分が良かった。 松浦武四郎はこの川沿いを旅していた時、この記念碑の近くの音威子府の鬼刺川付近で、アイヌの長老アエトモに「カイナー」という言葉の意味を訊ねた。そして、カイは、「この国に生まれたもの」という意味で、ナーは尊称だと教わったという。
近代化を目指す日本にとって、北からの脅威に備えるための北方の開拓は急務だった。アエトモとの出会いは、武四郎がそうした幕府の用命に答えるための旅の途中の出来事でもあった。明治2年、「蝦夷地」には開拓使が設置された。武四郎は、長らく蝦夷地と呼び習わされてきたこの島の名前を新たに提案する意見書を開拓使に提出した。いくつかの候補の中から、名前の一部に「カイ」を入れた「北加伊(きたかい)道」が基本案として採用された。そして東海道や南海道という幕府時代からの旧国道である五畿七道の呼称に倣って、今の「北海道」という地名が与えられた。いまでも武四郎がアエトモから聞いた「カイ」という音が、ここにある。
これは、この島ではとても有名な故事になっていて、すでにどこかで目にしたことがある言葉でもあったのだが、実際に天塩川の匂いを嗅ぎながら知ると、カイという音が生きた言葉として感じられるような気がした。
翌明治3年、武四郎はアイヌに対する搾取を行いつづける開拓使を批判し、北海道命名直後から開拓判官に任命されていたにも関わらず、自らその職を辞して北海道を去った。けれどメイン・ランドに戻ってからも、雅号を「北海道人」と名乗り、歌を詠んだり、絵を書いたり、山に登ったりして暮らしていたという。
言うまでもなく「北海道人」と名乗った武四郎は、北海道に産まれた者ではない。
天塩川 「北海道命名の地」記念碑付近
いま、わたしは「長万部写真道場」などの北海道に残された戦後の郷土写真資料を活用するための新しい団体を組織して動こうとしている。そのため「北海道」という言葉を自ら発することがとても多くなった。しかしわたしが自分の言葉として書いたり、声に出す度に、「北海道」という言葉を自分が使うことができるのだろうかと、くよくよと悩んでしまう。だって「北海道」って、武四郎がこうして作り上げたただそれだけの言葉で、無根拠な言葉だっていう感じがしてしまうのだ。たとえば「北海道写真」って発音した時、自分の心では、それは正直に言ってまるで中身のない言葉のように感じてしまう。そういう枠を作ることに、果たしてどれだけの意味があるのだろうかと思う。
だから、天塩川の「北海道命名の地」に訪れて、武四郎の物語を読み、つかのま彼の考えや生き方に想像をめぐらしてこう思った。彼は「北海道」という言葉に自分が込めた意味を知り、現実世界におけるその虚構性を完全に知りながら、自分が名付けた島を去ったというのに、どうして自らを「北海道人」と名乗ることができたのだろうか。
ところで、わたしはもう一つ移民の話を知っている。家族に連れられて森の開拓のためにカナダ東部に渡ったアーネスト・トンプソン・シートンというスコットランド系移民の少年のことだ。
これは、管敬次郎さんの『野生哲学』(講談社、2011)を読んで知った物語だ。
シートンは、カナダでショーニー族の指導者テクムセーに出会い、テクムセーを師として尊敬し、彼から様々な教えを受けた。シートンはその後アメリカに移住したのだが、少年時代に学んだテクムセーの精神をみんなと分かち合うために、ボーイ・スカウト運動の原型となるウッドクラフト・インディアンという団体をアメリカの少年たちと組織して野外活動をした。少年たちは自治権を持った「部族」を作り、自分たちにあった動植物のトーテムを結束のしるしとした。少年たちは活動の目標を達成するごとに、平原インディアンに倣って飾りの羽やビーズ細工のバッヂをもらった。
ここで詳しくは触れないけれど、そういうシートンの発想から、現在のボーイ・スカウトというものが発生したのだが、いまのボーイ・スカウトはシートンが夢見たものとは同じではないと管さんは書いている。『野生哲学』の序章に簡潔に記されているのでぜひ読んでみてほしい。
この文章のあと、管さんは、『「血」からいえば「インディアン」とはまったく無関係の少年シートン』は自分自身をひとりのインディアンに作り変えようとしたのだと評してこう続ける。
こうした、まるで無根拠な、「非本質的」な転身によってのみ、われわれの生き方の本当に深い変革はもたらされるのではないか。個人としても、社会としても。「模倣」の重要性を真剣に考えないかぎり、ぼくらは「文化」という現象の本質にも、「思想」という力の核心にも、けっして到達することはできない。(管敬次郎『野生哲学』講談社、2011)
管さんの言う「非本質的転身 」を武四郎の命名行為にも見いだすことは可能だろうか?ふと、そんなことを思う。

来年、北海道という名付けが行われてから150年が経つ。
デイヴィッド・エイブラムの言葉を借りれば、発音するたびにアイヌ語の「カイ」をも含めて、我々は「北海道」という言葉をスペル(綴る=呪文を唱える)している。それは一体どんな魔術だろう。この150年、私たちは一体何を見ていたのだろうか。そういった過去から、今、私たちは何を見いだすことができるのだろうか。
石狩川河口 本郷新「石狩-無辜の民」からの眺め

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