天狗の住む島

今年初夏に、日本海側、北海道西北岸沖に浮かぶ焼尻島に行ってきました。
焼尻島のさらに西には天売島が位置しています。焼尻と天売は、同時代に形成された双子の島。地盤の隆起と波の風化作用によって、海岸線沿いに階段状に発達している地形なので、海岸段丘島と言われます。

天売は、絶滅の危機に瀕しているウミガラス(オロロン鳥)の国内唯一の繁殖地として名高く、さらに海鳥の中でも人気があるウトウ、ウミウ、ケイマフリなどの希少種を観察することができる。(現地で知ったところによると、天売島に移住し写真家、ネイチャーガイドとして活動されている寺沢孝毅さんという方がいらっしゃるとのこと。知床にも撮影に訪れている模様。)この天売島、友人が働いていたことがあり自分も3年前に訪ねたことがある。

今回は初の焼尻島。
今年オープンしたばかりの「ゲストハウスやすんでけ」に泊まって、オーナーの奥野さんに島の集落や自然観光地をご案内していただきました。奥野さんは数年前にこの島で起業するために移住し、島で新たな観光資源となるものを探ってきました。その経験を活かして、宿泊業の傍ら、観光ガイドとして宿泊者の方々をご案内しているのだそうな。

焼尻の観光名所はというと、「サフォークめん羊」、そして「オンコの森」です。
ここには「オンコの森」と呼ばれる約5万本のオンコ(イチイ)が自生する自然林が、羊の放牧地と居住区の間に残されていると焼尻島の観光案内パンフレットに書かれています。島に足を踏み入れ驚いたのは、居住区と隣接して、というか、徒歩5分圏内にこの自然林が残されているということでした。
新しい森から古い森、笹薮、草地まで、狭い範囲で多様な植生が残っているので、野鳥の種類も多い。天売狙いのバードウォッチャーも延泊して立ち寄る価値があるのではないかな。

台風上陸前日で天気は優れなかったけど、「オンコの森」のハイキングルートを奥野さんと一緒に歩いてもらいました。
森の入り口には、ミツバやオオウバユリ、ワラビ、エゾエンゴサクなどの群生地があり、中間部にはミズナラ、キハダ、イタヤカエデなどの落葉広葉樹、イチイの奇木などが自生しています。さらに奥には「ウグイス谷」と呼ばれる谷池があり、広くはないですがアカエゾマツとイチイの森が残っていました。
奇木はイチイだけでなく、ナラ類の変形具合も凄まじく、目を引きました。幹が途中から奇妙にねじ曲がったり、折れた先で新しい枝を張ったり、様々な造形を見せています。日本海側特有の豪雪、絶えず降り積もる雪の重みを逃れるために、何年もかけて作り上げられた樹形なのだと思うと、形の中に時間さえも眺められるような気がしてとても面白い。
また島内に鹿が居ないということで、鹿の食害が顕著になってきた北海道本島の自然観察地と比較してみると、森林景観が非常に良好に保たれている点も植生的に貴重でしょう。

俯瞰して森を見てみれば、居住区との隣接部、森の入り口には山菜野草の群生地があり、中間部には広葉樹林、再奥部には、わずかながらも針葉樹林のエリアがあるということになります。この森全体の風景が、いまこの場に訪れる我々に、焼尻島の物語を語りかけているように感じる。

ハイキングの途中で奥野さんが植物に関して様々な知識を教えてくれたのだけど、もっとも印象深かったのはウグイス谷だった。
アカエゾマツの大木が斜面に生えていることに目がいって、しげしげと眺めていたちょうどその時、奥野さんが立ち止まってこちらを振り返ってこう言った。

「ここはなぜか天狗の住むところと言われているんですよね」。

奥野さんによると、ここは地元の方々からは「天狗の住む場所」と言われていて、ここの木は決して切ってはならないと言い伝えられているらしい。イチイの年輪も見ているのかもしれないけれど、この言い伝えを根拠にして、この森を「300年間手付かずの原生林」と謳っているのだなと、深く納得することができた。

阿寒や根室、知床にはアカエゾマツの純林が山の奥深くや人里からやや離れたエリアにいくつか残っているけれど、そのような場所は険しく、こんなに気軽にアカエゾマツの大木を見に行くことなどできません。しかしそれが目の前にある。
人の住む場所からわずか数百メーターしか離れていないところにこんなところがあるとは。

アカエゾマツは、北海道の極相林 Climax Forestの指標となる樹木で、高湿潤な土壌を必要とします。(だから、保水力の弱い斜面に大きな木が生えているのは珍しい)。北海道のほとんどの場所は、もともと湿潤な土壌であり、あたりまえにアカエゾマツが生えていました。しかし、農地開拓のためにアカエゾマツの森は切られ続け、地面は乾燥化してしまいました。この木は、いまでは急速に分布面積が減少しており、生態学的にも貴重な存在になっています。
初めて森を見る人にも理解してもらえるように、アカエゾマツが優占できるような土壌が形成されるためには、乾燥化した大地を人が触らずに放っておいて、ざっと500年以上は掛かるのだと、わたしが森をガイドする時には解説します。
アカエゾマツによって、ここは300年前まで手付かずだったという話をさらに遡る話ができるかもしれない。いったい何世紀の間この谷筋は手付かずだったのだろうか。

島内の郷土資料館には、焼尻で出土したという、縄文時代の土器が飾られていました。
いまのところ、きちんと資料を漁ったわけではないので、ヒトが焼尻島を連続的に利用していたのか、あるいは断続的にであったのかはわかりません。しかし地勢を見て、個人的感触としては、春季〜秋季の狩猟採集時のキャンプサイトとして利用していたのではないかと推察しています。

奥野さんによると、焼尻に始めて居住した日本人はニシンを求めて渡ってきた、秋田からの移民たちだそうです。彼らは、元々住んでいたアイヌの漁民たちを使役して、ここにニシン場所と番屋街を作りました。
秋田とアイヌの漁民。彼らが同じ島で生きるためには、共有財産としてこの森をいかに持続的に利用できるかが重要だったろうと思う。それ以外に、この島で集団的に生きる手立てはなかったのではないか。その必然性が、もともとアイヌ民族が培ってきた樹木の利用方法や文化的役割を秋田の人々に理解させた。だからこそ、いまもここで、奥野さんのような新たな住人や、いっとき立ち寄った旅人としての私に対してさえ、この森の古い伝承を語り継ぐことが可能になったのではないだろうか。そんなことができたのは、山神山霊の存在がいきいきと語られていただろう秋田という土地柄、秋田漁民の元々の世界観のおかげなのかもしれない。もっとも、これはわたしの気ままな空想に他ならないけれど。

いずれにせよ。総面積5.21km²の小さな島で、多様な植生を残す自然林が残っているのは、本当に奇跡的なことだ。
エゾエンゴサクの咲き乱れる頃にまた訪れてみたい。



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